誕生から滅亡まで。ハワイ王国の歴史を振り返る

誕生から滅亡まで。ハワイ王国の歴史を振り返る

公開日:2023.05.17
更新日:2024.08.10

ハワイはアメリカ合衆国で最も新しい50番目の州です。州になる以前は独立した王国で、アメリカの中でもかつて王国であった州はハワイ州だけです。ハワイ王国の誕生から滅亡までの歴史と、今もなおハワイで訪れることができる王国時代のスポットをご紹介します。

ハワイ王国が存在していた時代

今はビッグアイランドと呼ばれるハワイ諸島最大の島、ハワイ島出身のカメハメハ1世が1795年にハワイ諸島を事実上統一してハワイ王国の建国を宣言し、1810年にはハワイ諸島8島を完全に支配下に収めたのがハワイ王国の始まりです。1840年には憲法が制定され、国際的にも独立国として承認されます。1893年に立憲君主制が廃止されてハワイ共和国となり、準州としてアメリカ合衆国に併合されるまで、約80年間にわたって独立国家として存在していました。アメリカ合衆国の中でも、王国であった唯一の州であるハワイには今もなお大事に守られている深い歴史や文化が存在しています。

8人の王

ハワイ王国には8人の王が存在していました。西洋の武器や智恵も用いてハワイ諸島を統一したカメハメハ1世。次に王となった2世は1世の長男であったリホリホ。2世の死後、弟であったカウイケアオウリが3世として即位。4世はカメハメハ1世の孫、アレキサンダーリホリホ。4世の死後は、4世の兄であったロット・カプアイヴァが5世に。カメハメハ直系の孫にあたる5世の亡き後、6代目の王はルナリロ。ルナリロの母は、カメハメハ1世の姪にあたります。ルナリロが後継者を指名せずに亡くなったため、議会で選ばれたのが7代目のカラカウアです。そして、最後はカラカウア王の妹であったリリウオカラニが8代目の女王となりました。それぞれが政治や文化の発展、外交政策や教育の充実などハワイの歴史に多大な功績を残し、今でもハワイの歴史や文化に大きな影響を与えています。

ハワイ王国の歴史

ハワイ王国の成立と初代王カメハメハ大王

photo by Wikimedia Commons

・ジェームズ・クックの渡来

18世紀末までのハワイはポリネシアの島々との交流はあったものの、諸外国との交流はなく、ハワイの島々の中で各地の王による土地争いが行われていました。そんなハワイに初めて上陸した外国人が、イギリス人の海軍士官であり海洋探検家であったジェームズ・クックです。1778年1月、クックはカウアイ島のワイメアに上陸し、その当時の英国海軍大臣の「サンドイッチ伯爵」の名前から、ハワイ諸島はサンドイッチ諸島と命名されました。ハワイの人たちとクックらは物々交換を行ったりと友好的な関係を築いていくようになりました。カメハメハ1世がクックと出会って西洋の武器や知恵を手に入れたことにより、ハワイ諸島統一へ向けて動き出しました。

・初代王カメハメハ大王の誕生

1791年、大首長の死後ハワイ島は三つの勢力に分かれました。キラウエア火山の噴火で敵の軍が全滅したことに加え、カメハメハは西洋の大砲や銃、知恵を利用してハワイ島を制圧します。続いてマウイ島のイアオ渓谷、オアフ島のヌウアヌパリでこの二島を制していたカヘキリという王の軍隊を破り、1795年にハワイ王朝の樹立を宣言しました。その後カウアイ島に攻め入ろうとしますが嵐や疫病で実現しませんでした。最終的にはカメハメハの​​要求を受け入れてカウアイ島の王であったカウムアリイが降伏し、1810年にハワイ諸島が統一され、ハワイ王国が誕生しました。

文化と産業の発展

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・カメハメハ王朝(初代〜5代目)

初めて西洋の知恵や武器がハワイに入ってきたのが、カメハメハ大王と呼ばれる1世の時代。別々の首長が治めていたハワイ8島を統一し、ハワイ王国を設立しました。

2世の時代、ハワイには男女が一緒に食事をしてはいけないなど「カプ」と呼ばれる戒律がありましたが、カメハメハ大王の妻であるカアフマヌが二世にカプ制度の廃止を求め崩壊しました。

3世が在位している間、ハワイ王国の経済を支えていたのは捕鯨産業でした。ハワイの人たちは元々鯨を海の神の化身と崇めていたため捕鯨はしていなかったのですが、目まぐるしく西欧化が進むハワイでは捕鯨産業が盛んになります。専制君主国であったハワイは、カメハメハ三世の時代に憲法が制定されて立憲君主国へと変わり、宗教の自由化によってキリスト教が広がって急速に近代化していきます。疫病により先住ハワイアンの人口も激減した時代でもありました。

4世はアメリカ人宣教師による英語教育を受けて育ち、欧州へ赴いたり、アメリカ合衆国大統領とも会っています。この頃アメリカ本土で石油が発見されたことにより、鯨油の価格が暴落。ハワイ経済を支えていた捕鯨産業が廃れていくことになります。

5世の時代、捕鯨産業に変わって砂糖産業がハワイの経済を支えるようになりますが、サトウキビ農園での労働力が不足していたため、移民局を設立し諸外国からの移民の受け入れを開始。日本人も農園で働くために移住を始めました。

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・カラカウア王朝(6代目〜8代目)

6代目の王ルナリロはカメハメハ大王の直系の孫に当たる五世の亡き後、議会の選挙で選ばれた初めての王となりました。捕鯨産業の衰退によりハワイ王国の経済は低迷していたため、ルナリロ王は砂糖にかかる関税撤廃を目指してアメリカ合衆国との互恵条約を試みますが、条約締結には至りませんでした。

7代目の王となったカラカウアは再び議会で選挙が行なわれて選ばれました。アメリカ合衆国との互恵条約締結を成功させ、砂糖産業でハワイ経済を繁栄させますが、同時にハワイでの西欧人の経済力も強まり、アメリカ合衆国への併合を求める声が強くなりました。長期の世界旅行をしたことでも知られ、日本にもこの時立ち寄っています。宣教師によって54年もの間禁止されていたフラを復活させたのもカラカウアでした。

兄であったカラカウアの後を継いでハワイ王国8台目の女王となったのがリリウオカラニ。彼女がハワイ王国の最後の王となります。在位していたのは2年間でしたが、ハワイ王国が終焉する激動の期間となりました。ハワイ最後の女王、リリウオカラニについてさらに詳しくご紹介します。

アメリカ合衆国に併合されるまで

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・最後の女王・リリウオカラニ

カラカウア王がサンフランシスコで亡くなった後、8代目の女王になったのが妹のリリウオカラニです。在位中、ハワイの経済を仕切っていた西欧人たちとハワイアンの人々の対立が激化していきました。アメリカ合衆国への砂糖の関税も撤廃され、締結されていた互恵条約も意味を失います。プランテーション所有者たちは、王国に土地が没収されるのではないかと不安になり、アメリカ合衆国への併合に賛成し始めます。そして、リリウオカラニはネイティヴ・ハワイアンの権利を取り戻そうと憲法を改正し、新憲法を発布しようと試みますが一部の大臣たちから同意を得ることができませんでした。結果的に女王は退位することになり、サンフォード・ドールが暫定政府の樹立を宣言し、ハワイは共和国となります。次第にハワイで王政復古を求める動きが出始め、武装蜂起が起き、リリウオカラニの邸宅からも武器が見つかったという理由で共和国政府により反逆罪の罪で逮捕され、イオラニ宮殿で8ヶ月もの間幽閉されることになりました。ハワイでは誰もが知っている「アロハ・オエ」という曲は幽閉されていた間に女王が作曲したものだとも言われています。リリウオカラニがハワイ最後の女王として在位していた2年間は、ハワイが王国から共和国に変わったという激動の時代でした。

・ハワイ共和国からアメリカへ

1894年に共和国になっていたハワイは観光地としての開発が進んでいました。そして1898年7月7日にマッキンリー大統領がハワイの併合を承認。1900年6月4日にはハワイ領土府が設立されアメリカ合衆国の準州になります。イオラニ宮殿ではハワイ国旗が降ろされ、星条旗が掲げられました。1901年にはモアナホテル(現 モアナ・サーフライダー・ウェスティン・リゾート&スパ)が開業、アラワイ運河の建設が始まったり、当時は沼地であったワイキキの埋め立てが開始されたりと、現在のワイキキの様子に近づいていきます。その後、第二次世界大戦後の1959年にアメリカ合衆国の50番目の州となりました。この年には今でもハワイ最大のショッピングモールであるアラモアナ・センターがオープンしています。その後ハワイは大ヒット映画のロケ地となったり、大型旅客機の就航によりアメリカ本土だけでなく日本からの観光客も増え、観光産業が盛んになりました。1993年にハワイ併合は違法であったと見なされ、アメリカ合衆国は公式に謝罪しました。